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創始者矢追博美先生の紹介
矢追先生急逝
矢追博美先生が2015年2月2日に急逝されました。
矢追インパクト療法創始者の矢追博美先生は、2014年暮れ頃より体調を崩され、本年2月2日未明に岩手県の自宅で倒れられ、救急搬送されましたが、同日午前8時に永眠されました。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
矢追先生のご略歴&ご業績
先生は、1975年に岩手医科大学医学部をご卒業、同大学大学院修了後は岩手県立中央病院呼吸器科で奉職され、1984年に同病院呼吸器科医長の職を辞し、4月1日岩手県滝沢村(現在滝沢市)に矢追医院を開設されました。
矢追インパクト療法の発見
1988年頃、それまでの通常の減感作療法に疑問を感じたことから、9歳の喘息・アレルギー性鼻炎の患者さんに対して矢追インパクト療法を開始しました。
学会発表・書籍出版
1992年「汎アレルギー状態Pan Allergic State」の概念を日本医事新報に発表、同年第6回日本臨床内科医学会で発表されました。
翌1993年には日本医事新報に「矢追インパクト療法」を発表、「驚異の矢追インパクト療法」を出版され、同年12月に矢追インパクト療法学会が発足しました。
その後は毎年4月に矢追インパクト療法学会を関東と関西で交互に行い、秋には日本臨床内科医学会で2000年の仙台開催の第14回日本臨床内科医学会まで毎年発表されていました。
2006年からは東京の学士会館で矢追インパクト療法学会を続けています。
1995年には「鼻の病気よさようなら」を出版されています。
海外での普及活動
また、1996年にはグルジア共和国でYITの特別講演をされ、エジプトカイロの第1回汎アラブアレルギー・臨床免疫学会で「YITの新しい免疫療法としての側面」を発表されています。
翌1997年にはギリシャロードス島での第16回欧州アレルギー・臨床免疫学会で「矢追インパクト療法催眠効果の自律神経的側面」を発表、マケドニアでも招待講演をされました。
理論の発展とその裏づけ
減感作療法の限界を超える矢追インパクト療法を創始され、汎アレルギー状態の概念から始まり、矢追インパクト充電理論という理論を生み出し、それらの理論を強固にするために、20年間もの間巨費を投じてYITによる神経伝達脈管作動性物質の変化を追求されました。
日本に於いてはもちろん、海外でも種々の学会に出向かれ矢追インパクト療法を普及するための努力を惜しみませんでした。
休みない診療活動
2000年6月には東京神田に矢追インパクトクリニック東京を開設され、岩手での診療を続けながら、毎週水曜・木曜早朝から夜遅くまで色々な病気に悩む患者さんの治療を続けてこられました。
治療効果と治療対照の拡大
毎年YIT学会の度に先生の診療の様子がビデオで提示され、YITにより即座に驚くほどの改善を見て飛び上がるように喜ぶ患者さん達の気持ちが直に伝わってくるようでした。YITの初期の頃は治療の対象は主にアレルギー関連の病気でしたが、次第に先天性疾患や脳卒中後遺症のリハビリなどにも範囲が広がっていきました。虚弱な牛がYITで元気になることも報告されています。
受賞歴
先生の業績に対し、2001年日本文化振興会より社会文化功労賞と菊華勲章を授与されました。また、2009年10月には国際連合協会より、特別功労賞受賞、ローマ法王ベネディクト16世からの祝辞をお受けになり、2010年2月に国連機構調査評議会から特別功労賞受賞、2011年2月バラク・オバマ米国大統領より特別功労賞を受賞されています。
震災での活動
2011年3月には岩手県沿岸部の東日本大震災被災地に出向き、被災者に対してのYIT治療をなされました。
診療スタイル
矢追先生の診療スタイルは、患者さんがなぜ病気になるに至ったかを追求するために、かなり長い時間をかけていました。そのことにより先生は、患者さんとその病気だけでなく、その背後にある生命現象そのものに目を向けていたのだろうと思われます。また、患者さんの病気をYITにより必ず治すという先生の信念は、治らないと諦めていた患者さん達との間に特別な治療の場を作り、YITそのものの効果をより強めていたものと思われます。
幅広い関心
先生の興味の対象は諸々の社会現象、生命現象など非常に多岐にわたり、毎月の医学雑誌・介護雑誌のコラムには、YITに直接関係することだけでなく、その時々の世間の話題が豊富に散りばめられ、世の中の動きにも広く目を配られていたことがわかります。
冥福をお祈りします。
先生は正に自らが創始された矢追インパクト療法に命を捧げておられました。
お亡くなりになる直前まで東京と岩手で診療をされ、たった1日の休息の後に亡くなられました。ずっと休む間もなく走り続けていらっしゃいました。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。